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伊藤 勲(いとう いさお、1942年5月14日 - 2007年5月26日)は、宮城県仙台市出身のプロ野球選手(捕手)。岩手県生まれ。愛称は「キートン」。 == 来歴・人物 == 父親の転勤で幼少期を各地で過ごし、中学時代に仙台市に移る。東北高校では、2年生の時に控え捕手として夏の甲子園に出場、準決勝で宇都宮工高に敗退。レギュラーとなった翌の夏も甲子園に連続出場。1回戦で青森高に敗れる。 強肩強打の捕手として大洋のほか、巨人なども注目したが、1959年に同校出身の波山次郎が大洋に入団していたこともあって、に大洋入り。契約金は170万円で、年俸は36万円だった。ルーキーイヤーから一軍でマスクを被り、から正捕手として活躍し始める。監督の三原脩に「グラウンドの指揮官」と呼ばれた土井淳からレギュラーの座を奪い取る形となり、過去3年間の計55試合出場から一気に125試合に出場。また、同年のオールスターゲームにも初選出される。には自己最多の23本塁打、60打点を挙げる。現在、伊藤が同年放った23本塁打は大洋・横浜・DeNAの捕手として最多本塁打記録である。には青田昇監督の下で、初めてフル出場した。しかし、打率の低さがネックになり、秋山登監督が就任した頃からは、台頭著しい福嶋久晃捕手との併用が続く。別当薫監督が就任したからは、完全にレギュラーを奪われるようになる。 オフに南海ホークス・広瀬叔功監督に請われる形で、佐藤道郎との交換トレードにより田村政雄と共に南海に移籍。に選手兼任監督の野村克也が解任され、捕手不足に泣いた南海とストッパー不在の大洋との思惑が一致した。南海では伊藤の大洋時代の背番号5を和田徹が着けていたが、引退してコーチに就任したため、伊藤に譲渡した。には広瀬監督に重用され、10本塁打を放つと共に、長打率は自己最高の.475を記録し、南海の最下位脱出に貢献。また、1000本安打を達成するなど移籍後最高の成績を残した。 南海時代の伊藤は肩の衰えから捕手としてでなく指名打者として出場することも多く、3番を打つこともあったが、現役最後の年となるには一軍出場は無かった。 引退後はからまで大洋の二軍バッテリーコーチを務め、市川和正らを育てた。その後はtvkの野球解説者を経て、プロ野球マスターズリーグ・東京ドリームスに参加。還暦捕手として活躍し、とにはマスターズリーグ賞を受賞。自宅の一室をトレーニングルームに改築するなど体力維持に務め、には社会人野球・NTT東日本のコーチに就任。チームを強豪に育て上げたが、体調不良のためシーズンをもって退部。 2007年5月26日、肺癌のため東京都内の病院で死去。65歳だった。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「伊藤勲 (野球)」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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